震災直後でもなぜ観戦するのか?(ヤマハスタジアムでの事件から)マリーシア感情的サポ論

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なんとも不思議な事件だった。入場料を徴収して興行して「喜ばないように」とは本末転倒。この発言がジュビロ磐田のクラブとしての考え方ならば開催すべきではなかったね。喜ばずして何を目的に応援しろというのか。しかも、「ジュビロ」とはスペイン語で「歓喜」の意味。夢と感動をサポーターに与えたいという願いがこめられているのだ。それなのにもかかわらず、クラブの警備責任者が自らの提供価値を否定する発言を行ったのだ。

 

さて、東日本大震災のときの教訓からか、熊本での大地震があったのにもかかわらず、今回は、行きすぎた自粛ムードは起きていない。それでも、「こういう状況なので楽しい時間をおくっても良いのだろうか」と自問自答する選手やサポーター、そして関係者は一定割合で存在するだろう。はたして、震災時のスポーツとは何なのか?スポーツにできることは何なのか?

みなさんはスポーツの語源をご存知だろうか。その語源はラテン語のデポルターレ「deportare」。この単語は 「de」と「portare」から出来ており「人間が生存に必要不可欠なことから一時的に離れる」ことを意味している。つまり「気晴らしする」「休養する」「楽しむ」という意味だ。震災の辛い思いや暗い先行きの不安から、一時的に心を解放してくれるのがスポーツの役割なのだ。サポーターが無我夢中で応援すること、そして、勝利の喜びを爆発させることは、まさしくスポーツの本質。私たちが生きるために必要なことだ。

スポーツの中でもサッカーにおいては、サポーターにとって神とも言える、愛するクラブのスーパースターが見せるプレーと、それを応援するサポーターのパフォーマンスは、しばしば、祭にたとえられる。日本の祭は、神話において、このように描かれている。

天照大神という太陽の神が岩屋戸(洞窟)に篭る。天界も地上界も暗闇となり、さまざまな災難が起こる。そのとき、天照大神を外に出すために、八百万の神々は女神を踊らせ岩屋戸の前で大宴会を繰り広げるのだ。皆で大笑いをし楽しく過ごしていると不思議に思った天照大神が岩屋戸から顔を出し、天界も地上界も明るさを取り戻した。

日本の神話も「災難が起きたら笑って楽しく祭をやろう!」と伝えているのだ。だから、スポーツは自粛にそぐわない。サポーターは思い切り楽しむが良いのだ。そして、その喜びの連鎖と共有はサポーターの最大の強みだ。サッカーを通して東日本大震災時には復興支援の輪が大きく広がった記憶を風化してはならない。あの時を思い出してほしい。復興支援を私たちは心の底で、喜びに感じてはいなかったか?あれは苦しかったのか?

この文章を読めるサポーターは、幸い、被災地の外にいる。「こういう状況」だからこそ、スタジアムで「生存に必要不可欠なことから一時的に離れる祭」に参加し、共感し、明日への活力を沸き立たせよう。そして、スタジアムを離れたら、仕事に学業に、育児に、家事に・・・世の中を動かす現場に戻ろう。被災地のことも想いながら、今を、思いっきり生きようではないか。

熊本、大分が元に戻る日を信じている。応援する。アウェイにも行きたい。