我輩はカモである マルクス

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第3話 オペラは踊らずインチキ商売

マルクスの名を聞けば、「良き思い出に浸れるサポーター」と「悪夢が蘇るサポーター」に二分される。初来日はJFLの本田。1999年シーズンに22ゴールを記録した。2002年シーズンからはワールドカップに合わせて新設されたビッグスワンの大観衆の前で2年連続のJ2得点王。特に2003年シーズンは32ゴールの驚異的な得点力を見せアルビレックス新潟のJ1昇格に貢献した。2004年シーズンは当時はJ2だった川崎フロンターレでプレー。ここでも18ゴールを記録。2年連続で所属クラブをJ1に引き揚げる大活躍だった。2005年シーズンはJ1でプレーし9得点・・・と言っても、ジュニーニョとのコンビネーションは脅威で、多くの得点を生み出す原動力となる「前後分業サッカー」の主力中の主力であった。
ところが2006年シーズンは6月に「チームと本人との間に意見・方針の不一致があることから本人より移籍の申し入れがあり」突然の途中退団。移籍コメントには、その理由として「このチームでこれからも戦っていくモチベーションが落ちてしまっています。」という意味不明の文章が掲載された。直後に東京ヴェルディに移籍し、ここでも大活躍する。2007年シーズンも東京ヴェルディでプレーすると報じられていたが、開幕直前に電撃移籍。横浜F・マリノスでプレーすることになった。そして2試合だけ出場し7月には横浜F・マリノスを退団した。

実は、本田を退団し再来日する間の2年間に5つのクラブで移籍を繰り返していた。マルクスの代理人はコンスタンチン・テオ。ブラジル人選手を移籍させる際に発生するはずの移籍金に関する税金を非課税にするために、ウルグアイのクラブであるCAレンティタスに一時所属(プレーはしない)させることで大きな利益を獲得する等の悪徳手法で有名な代理人だ。川崎フロンターレに所属したフッキやレナチーニョの移籍には、この方法が用いられている。コンスタンチン・テオはマルクスの移籍を繰り返すことで多くの移籍金収益を得ていた。6月22日にマルクスの退団を発表した川崎フロンターレのオフィシャルサイトには「マルクス選手の今後は未定」と発表されたが、東京ヴェルディは2日後の6月24日に移籍を発表している。横浜F・マリノスも、彼の喜劇に乗せられたのだった。

マルクスのプレーは酷かった。
ボールを触っているシーンは思い出せない。
タッチライン際をジョギングしていたよ。
石井和裕(談)

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