鹿島アントラーズと歩んだ20世紀CLASSIC戦記

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トリコロールが鹿島と歩んだ20世紀をサポーターの記憶から辿る。

J1を舞台に、27年間、唯一続く宿命の一戦。いつしか、鹿島戦はCLASSICと呼ばれる特別な一戦になった。しかし、20世紀の鹿島戦は、今とは全く違っていた。名門のトリコロールに対して小さな町の新興クラブの鹿島という構図。それでいて、当時のカシマスタジアムを苦手としており悔しい思い出ばかりが蘇る。CLASSICはどのようにして始まったのか。リーグ戦に限定してサポーター戦記をここに残す。

1993年7月3日 Jリーグ1stステージ 第15節
長い芝生とスパイク事件

Jリーグ初代王者を賭けての1位と2位の直接対決。初めての鹿島遠征となった。この年の鹿島は、今考えてみると実に納得のいかない「海外のサッカー場は芝を守るために試合前にピッチで練習をさせない」という理由を持ち出し、アウエークラブを困らせていた。特に、カシマスタジアムは他のスタジアムと比較すると芝が長く、一歩も足を踏み入れずに試合がぶっつけ本番で開始されるのは、アウエークラブにとって大きなハンディとなった。この試合では、木村、水沼のスパイクと芝がフィットせず、ピッチ外に出てスパイクを履き替え始めた瞬間に鹿島がプレーを再開し速攻でゴール。アルシンドに2ゴールを奪われ1-3でマリノスは敗れた。これで調子を崩したマリノスは第17節の横浜ダービーでも敗れ、最終的には3位でリーグ戦を終えた。この大一番を追いかけるためTBSはマリーシア(当時のコアサポーター)に密着取材。JRでの移動から取材班が同行した。チアホーンの音量が暴力的であり屋根が震えた。

1993年8月7日 Jリーグ2ndステージ第4節
歴史に残る大誤審事件

Jリーグが流行語となり、社会現象ともいえる空前の大ブーム。そんな目がくらむほどの輝かしい舞台をたった6試合で去ることになった人がいる。その人は山田等さん。1993年に6試合の主審を担当。しかし、たったの6試合でJリーグを追われた。最後の試合が三ツ沢での鹿島戦だった。山田さんの判定に不服な鹿島のアルシンドが抗議し、勢いよく山田さんをピッチ上に押し倒した。しかし、山田さんは、イエローカードもレッドカードも出さずに笑顔で次のプレーを進めるように促した。その判定が命取りとなった。山田さんには、その後はJリーグでの担当試合はなく、関東大学サッカーリーグなどの主審を担当することになった。ヤジとブーイングに荒れた試合だった。

1993年11月13日 Jリーグ2ndステージ第12節
ゼネコン汚職事件と茨城県

当時は米不足とゼネコン汚職が社会を賑わせていた。特にカシマスタジアムの電光掲示板設置は茨城県知事の利権発注の注目になっていた。スタジアム全体を揺らす「鹿島アントラーズ奇跡を起こせ!」の歌声が途切れたときにマリーシアを中心にするゴール裏のサポーター(ほぼ全員)から大声で真面目顔で、その歌が歌われた。「ゼネコン、ゼネコン、ゼネコン~お~しょ~く~。ハザマの賄賂で私服を肥やせ~!」。あまりに真剣に歌う姿と真実の歌詞に、周辺の鹿島住人からも、どっと笑いがおき、後に赤いエリアは沈黙となり歌声だけが響いた。
試合は0分、19分にディアス様のゴールでリード。しかし、終わってみれば2-3で惨敗。この試合で、苦手・カシマスタジアムの印象が定着した。

コアサポ時代のマリーシア

1994年4月30日 Jリーグ1stステージ第13節
元祖プラチナチケット

改装前のカシマスタジアムは収容人数が15000人。チケット入手が最も困難なスタジアムだった。ビジタースタンドエリアは存在せず、一般発売でアウェイサポーターがチケットを入手することなど、ほぼ不可能であった。マリーシアのメンバー1名がJTBの鹿島アントラーズ応援バスツアーを買い占めた。それしかカシマスタジアムに乗り込む方法がなかったのだ。そのため、ツアーの大型バスに乗るサポーターのほとんどがマリーシアのメンバーとなってしまった。チケットはバックスタンドの指定席だった。ツアーコンダクターから泣きそうな顔で頼まれた。「アントラーズ応援ツアーなのでマリノスの応援を席でされちゃうと、次からはチケットが入手できなくなってしまっては弊社としては困るんです。」指定席だから応援しようがしまいがトリコロールカラーの一団が指定席に集まればすぐにバレル。しかたなく、メンバー達はスタジアムに着くと、全員分の指定席チケットとゴール裏自由席チケットの交換を始めた。反感を買わないように。「こちらはバックスタンドの指定席となっております。連番でご用意できます。お持ちでいらっしゃる自由席よりもかなり見やすい席となっております。恐れ入りますが、交換していただくことは出来ませんでしょうか。」過剰なまでに丁寧な敬語だった。

改装前のカシマスタジアム

1995年3月18日 Jリーグ1stステージ第1節
松田直樹デビュー

Jリーグ初優勝は、この第1節のミラクル采配から始まった。トリコロールのセンターバックは井原と小村の日本代表コンビで不動だった。しかし、第1節に、高卒ルーキーだった松田直樹が割り込んだのだ。ホルヘ・ソラリ監督は、これまでのベテラン偏重のトリコロールの選手起用にメスを入れ、クラブを急激に変えていった。カシマスタジアムでの激闘は87分に同点に追いつき96分に逆転。4-3の勝利で優勝への第一歩を踏みしめた。過去、最もサポーターが満悦したカシマスタジアムでのアウェイゲームであった。

1995年7月22日 Jリーグ1stステージ第26節
初のステージ優勝

優勝に王手をかけたホームゲーム。試合を決めたのは、メディナベージョの放った当たり損ないのシュートだった。脚の外側に当たったボールは、不自然な弧を描いで右に曲がりながら弧を描き、ゴールマウスに吸い込まれた。当時、三ツ沢がホームスタジアムの頃は、マリーシアの試合後のたまり場は白札屋だった。ファーストステージの初優勝を遂げ、座敷は貸し切りになった。歌って騒いで盛り上がり、ついにはビールかけになった。座敷はビールでぐしゃぐしゃになった。翌日から座敷は数日間使えなくなった。

初のステージ優勝

2000年4月1日 Jリーグ1stステージ第4節
嘘のような波戸退場不敗伝説

岡山一成がFWからDFにコンバートされた直後の試合。Jリーグの長い歴史の中でも一二を争う期待はずれ助っ人と言えるベベットが岡山に競り勝ってゴール。これがベベットの日本で唯一のゴールだった。1-2と1点を追う状況でトリコロールは奥の手を出す。それは67分の波戸退場。波戸が退場した試合ではトリコロールは無敗だ。82分に中村、89分に柳想鐵が逆転ゴールを奪い勝利した。波戸退場不敗伝説を不動のものにした試合だ。

2000年12月9日 Jリーグチャンピオンシップ第2戦
肘打ちと絡まる蜘蛛の糸

鈴木隆行の肘打ちに小村が倒れ先制点を奪われる。オフサイド崩れを奈良橋に叩き込まれ、中田浩二のクロスをキャッチし損ねた川口がゴールネットに絡まって駄目押し点。サポーターの多くが「2度と見たくない試合」に挙げる惨敗のゲームだ。