Jリーグ2階の目線2022 横浜F・マリノス2-1 東京 “喜怒哀楽” にあふれる水沼宏太、角田涼太朗、そして渡辺皓太

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横浜F・マリノスは設立30年を機にクラブのフィロソフィー(哲学)を再定義した。マリノスの「終わりの始まり」を経て新しいマリノスへ。フィロソフィー(哲学)に基づいた「使命・存在意義」は「“喜怒哀楽” にあふれる豊かな体験を提供し続ける」。この日のセレモニーで代表取締役社長の黒澤良二さんは「新たなはじまり」を宣言した。「終わりの始まり」から「新たなはじまり」へ、トリコロールの航海は続く。

日産フットボールクラブが会社として設立されて30年が経つ。この試合は設立日に最も近い日に開催されたため記念試合と位置付けられた。多くの人の支援を受けて、横浜F・マリノスは30年間を生きてきた。それに感謝し、次の30年間を歩み出す一日となった。

いつもとは違う選手入場。クラブの歴史と品格を表現するアンセムがピッチ上で演奏される。一流の演奏家による音色は、銀河系のような光を放つスタンドをバックに美しく奏でられる。演奏したのはVn青木るね、松尾茉莉、桜田悟、有馬千恵、Va髙野香子、池辺真帆、Vc西谷牧人、松尾美弦 Trp林辰則、三澤徹、小畑杏樹、中村諒、Hr國井沙織、森雅彦、Trb府川雪野、長谷川博亮、池城勉、Tub岩渕泰助、Cond大橋晃一。神奈川フィルハーモニー管弦楽団の皆さんだ。

コロナ禍にも関わらず2万人以上が集まった、メインスタンド、バックスタンド、そして、FC東京側のゴール裏スタンドのファン・サポーターは演奏に聴き入る。このスタンドに集まったたくさんの人々が、この試合の大きさを感じていた。Jリーグの歴史を大切にしていた。その価値の素晴らしさを一緒に創ろうと考えていた。

演奏が終わるとスタジアムは大きな拍手に包まれた。ところが、演奏中からアンセムの演奏に被せるように、全く違うリズムの別の太鼓の音が響いていた。アンセムの演奏が終わり、太鼓の音は続いていたが、しばらくの間は、その音に合わせる手拍子が聞こえてこなかった。皆、ピッチ上の出来事を見つめ、心を合わせて30周年を拍手で祝った。

これもまた、クラブの30年の歴史を象徴する出来事だった。かつてはゴール裏のコアサポーターは応援することの全てを象徴し統括していた。クラブとサポーターを結ぶ窓口の役割も担っていた。でも、30年を経て、その価値も役割も大きく変わった。ゴール裏のサポーターのアクションに大半の人が抵抗感なく従って応援が動いていく時代は、いつの間にか終わっていた。SNSが生活インフラとなった近年は、むしろ、試合のない日のスタジアム外の活発なコミュニケーションが仲間の輪を広げ、クラブと協力しながら応援を活性化していくようになっていた。全てのファン・サポーターはフラットな関係となり、ゴール裏のコアサポーターを通すことなく、クラブスタッフと個で繋がることが良好なコミュニケーションと適切なサポーター活動を広げていくようになった。

その結果、多くのファン・サポーターが聴き入る演奏にゴール裏の太鼓の音だけが被って響くという、過去30年間で経験したことのない状況が生まれた。あのとき、なぜ太鼓を叩こうとしたのか、サポーター心理から想像できる心当たりはある。しかし、その真意は、ゴール裏のコアサポーターにしか解らない。彼らは、自らの心情を、試合のない日のスタジアム外のコミュニケーションで伝えることを苦手にしているから。でも、目の前に現れた事実は、あの場にいた全員の記憶の通りだし、30年という節目の試合の出来事は、これからもずっと語り継がれていくと思う。

時が流れ、サッカーは変わる。30年前のサッカーは幼稚な一本槍で、しかもナイーブだった。積み重ねた戦いが、選手とサッカーを大人にした。そして、サポーターも変わった。アンセムの演奏から歴史の重みを感じざるを得なかった。

試合が始まると、次第にバックスタンド、メインスタンドの手拍子も太鼓にシンクロしていった。そして早々の先制点。元ベガルタ仙台の永戸からのクロスを元ベガルタ仙台の西村がヘディングで叩きつけ、元ベガルタ仙台のスウォビィクの横を通り抜けてゴールインした。それまで戸惑い気味だったスタンドが、これで一つになった。

しかし、予想外に早い時間に失点してしまう。FC東京の高い位置からのプレッシャーでボールを奪われ安部が同点ゴール。再び、スタジアムは静かになってしまった。

角田涼太朗の良いところを挙げればキリがないほどある。その中で一つだけを挙げるとすれば、守備者からボールを隠して前に運ぶドリブルだと思う。ギリギリまで前に運ぶことで、自分の方へ相手チームの選手を誘き寄せ、中盤の味方選手へのマークをずらす。縦パスを入れやすくする。トリコロールの最終ラインに必要な強さと技術だ。

失点の直前のプレーで、角田は自らに強いプレッシャーがかかる前に、不用意なパスを渡してしまった。いつもの角田ならば、このタイミングで、このような危険なパスをすることはまずない。予想外のタイミングで、しかもスピードの緩いパスを受けた渡辺皓太は慌てたように見えた。

ミスによる失点は仕方ない。ただ、ミスの質は問いたい。そして、ミスの後のプレーが最も重要だ。残念ながら、失点後の角田はハーフタイムを迎えるまで、勇猛果敢とは真反対のプレーを続けた。失点後の5分間に角田のボールタッチは10回。そのうち3回が前へのパス。7回が後へのパスだった。すっかり自信を喪失したように見えた。最終ラインからの組み立ては機能不全に陥った。

渡辺は気落ちしたようには感じなかった。しかし、FC東京は、特に渡辺と喜田に厳しいプレッシャーをかけた。渡辺のポジションは後ろに下がり、アンカー落ちのようなポジションになることもあった。これでは、本来のバイタルエリアで受けて渡してまた受ける渡辺の良さが発揮できない。渡辺は、ただ、後で左右にパスを振り分ける役割になってしまった。

この30周年記念試合の目先の勝ち点3を狙うならば、渡辺と角田は、どちらもハーフタイムで交代になっておかしくなかった。ただ、それは「目先の勝ち点を狙うのならば」という条件付きの選択だった。中長期を考えれば、渡辺と角田には乗り越えてほしい試練だった。この試合にフル出場して試練を乗り越えれば、きっとさらにワンランク上の選手に成長できる。

ある意味、監督は我慢して。角田をフル出場させたのだ。しかし、全てを我慢することはできなかった。渡辺は58分に藤田譲瑠チマと交代する。渡辺にとって不運だったのは、交代で入った藤田が「こうやればいいんでしょ」と、中盤に君臨してゲームを変えていったことだ。もしかすると、渡辺のパートナーが喜田ではなく藤田であれば、渡辺のプレーは違ったかもしれない。1年間のスケジュールの中で、監督は選手のやりくりをする。渡辺と喜田のセットは、今シーズンのFC東京と相性が悪かった。

後半が始まると、頭から投入された水沼宏太が職人技のクロスを入れ、アンデルソンロペスのゴールでFC東京を突き放す。Jリーグ過去30年間のクロス職人といえば、サンフレッチェ広島で活躍したハウストラが有名だが、水沼宏太は、はるかにそれを超えているかもしれない。そして、「“喜怒哀楽” にあふれる豊かな体験を提供し続ける」選手だ。水沼宏太のクロスからの得点はいつも鮮やかで、スタジアムは歓「喜」が爆発する。トリコロールに復帰後の大活躍は期待を遥かに上回っている。

日産FC時代の名選手・水沼貴史の息子としてユース年代から注目されトップ昇格。エース候補で、将来が「楽」しみな選手だった。しかし、本人の考えた通りのプレーはできず、出場機会を求めて移籍した。その際に、捨て台詞に解釈できる発信をしたため、多くのサポーターは激「怒」した。それに反発するかのように、水沼は古巣との対戦で活躍し続けた。水沼の活躍から失点を重ね、トリコロールは「哀」しみに包まれたのだった。

かつての(愛していたがゆえの)憎きクロス職人は、今、トリコロールの歴史を共に歩む仲間となっている。この試合のヒーローになるにふさわしい選手だった。試合後の表彰で「マリノスのDNA」と紹介されることなど、あの哀しみに包まれた期間には想像できないことだった。水沼貴史と水沼宏太と歩んだ30年間は、なんと豊かな共有体験なのだろう。

30年前に一緒に応援していた中学生女子は、ママとなり、この試合でも近くの席で一緒に応援している。その息子が、この試合を振り返り、胸を張って2階の目線TVの動画で発言している。30年前のファン・サポーターの夢の多くは実現した。誰もがサッカーについて街で自由に語れる世の中はやってきた。

大切なことを忘れるところだった。今日、川崎フロンターレが負けた。角田に貴重な経験を積ませた上で勝ち点差は1に縮まった。そして、とても大切なことを思い出した。30年前の1992年といえば、どうしても惨敗のヤマザキナビスコカップを思い出してしまう。でも、思い起こすべきは、そんな思い出ではない。1992―93シーズンはアジア制覇と天皇杯制覇の2冠に輝いた年だ。節目の30年に、リーグ優勝に加えて再びアジアの頂点に立とうではないか。

そう考えれば、このFC東京戦は、ACLでのライバルたちとの対戦にも経験が生きる、激しく厳しい、それでいて実りある一戦だったと思う。