Jリーグ2階の目線2022 横浜F・マリノス5-3 清水 新旧国立競技場30年間の戦い

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清水エスパルス設立30周年記念マッチとして開催された試合。清水エスパルスが設立30周年ならば、横浜F・マリノスも、また設立30周年だ。

国立競技場での最初の対戦相手は鹿島アントラーズだった。あの頃のジーコは、まだ対戦相手のサポーターからも広く尊敬の念を集めていて、選手紹介では拍手で迎えられた。見事なフリーキックにも大きな拍手が起きた。試合はVゴールで横浜F・マリノスが勝利。サッカーの楽しさが山盛りになった試合だったことを覚えている。あのとき、私はバックスタンドで応援していた。まだ、サポーターの中心部はゴール裏に移っておらず、コアサポーターはバックスタンドに陣取っていたのだ。そして私の後ろに寺ちゃんが座った。当然、初対面だった。だが、同じクラブを応援する仲間を増やしたかったため、すぐに意気投合した。 

あれから30年。私は今日も国立競技場のバックスタンドにいた。そして、私の後ろに今日も寺ちゃんが座った(バラバラに買った指定席なのに)。あたりまえのように、こんな週末を30年間も過ごしてきた。だが、満員のスタンドは久しぶりだった。やっと、感染対策は軌道に乗り、国立競技場のような巨大スタジアム(といっても日産スタジアムよりはかなり狭い)を満員にすることができたのは嬉しいことだ。次は声出し応援の検証に入る。 

この試合は清水エスパルスのホームゲームだ。1992年の試合で、清水エスパルスとはあまり深い縁がない。天皇杯の準々決勝で対戦したことくらいだろう。ただ、記念試合に指定されるほどの清水との浅からぬ関係(?)は見つかった。1992年の横浜F・マリノスの監督は清水(秀彦:当時38歳)だったのだ。それはさておき、オリジナル10として歩んできた9チームの中で、この大きな試合の対戦相手にトリコロールを選んでくれたことは嬉しい。両クラブの信頼関係を感じるマッチメークだった。 

王国清水の市民球団として30年前は破竹の勢いだった清水エスパルスは1997年に経営破綻。鈴与グループの支援で再生したが、今も戦績は低迷している。30年前に名門として優勝候補の筆頭だった横浜F・マリノスはヤマザキナビスコカップでふがいない敗退に終わった。その後、低迷期も経験したが、CFGの一員となり再び黄金期を創ろうとしている。30年後の両チームの力の差は歴然としていた。清水エスパルスの両サイドの的確な守備に苦戦した前半を乗り越えると、横浜F・マリノスが一気に突き放した。両チーム合計8得点も入り、炎が舞い、花火が打ち上がるお祭り試合となった。招待券で来場した人も喜んでくれただろう。国立競技場は幸せに満ち溢れていた。30年前に選手として対戦している松永コーチも満足だろう。 

この試合のスタンドには緩衝帯がなかった。バックスタンドではワールドカップや他競技のように両チームのファン・サポーターがミックスで応援を繰り広げていた。横浜F・マリノスの選手紹介のときはLEDがトリコロールに染まり、試合後は清水エスパルスの選手が横浜F・マリノスのゴール裏席にあいさつに訪れた。30年の間に、東日本大震災とコロナ禍があり、日本人の価値観は大きく変わった。スポーツの試合会場にも、その影響は垣間見える。気が付けばJ1は「浦和的なクラブ」と「浦和的ではないクラブ」に分かれている。「浦和的なクラブ」とは、アウェイのサポーターを隔離し交流を遮断。アウェイのサポーターにストレスを与える運営を行うクラブを指す。浦和レッズ、鹿島アントラーズ、川崎フロンターレが代表的だ。サッカーは「節度をもって憎しみのギミックをサポーターが交換し合う競技」として発展してきた。でも、それは古い価値観の上で成立してきたのではないか。この試合の清水エスパルスの運営、演出、両チームのファン・サポーターの振る舞いを見て、コロナ禍以降のJリーグが進む新しい可能性の一つを感じた。30周年の記念試合にふさわしい気づきだった。 

清水エスパルス設立30周年おめでとうございます。次の30年間も、共に歩みましょう。