Jリーグ2階の目線2022 横浜F・マリノス2-0鹿島 このクラブを応援してきてよかった29年と宮市亮

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1993年、Jリーグが開幕した年。今から、もう29年も前の話だ。当時、ゴール裏最前列で応援していたマリーシアをはじめとするサポーターの中に「マリノス君の中には佐野(佐野達=前年に引退したディフェンダー)が入っている」という噂が広がったことがある。ある日の試合、いつもの通り、私は三ツ沢の最前列で試合前に応援していた。すると私の方にマリノス君が近づいてきた。フェンス越しに肩を手羽で引き寄せられた私の耳には「佐野じゃないよ」という声が聞こえてきた。あの声が、誰の声で、どこから聞こえてきたのかは今もわからない。でも、一つ言えるのは、マリノス君は、ゴール裏のサポーターが何代にも渡って入れ替わっても、その頃からずっとサポーターと一緒にJリーグの歴史を歩み、ついに、500試合出場を迎えたということだ。この素晴らしいJリーグの存在を選手、スタッフ、スポンサー、関係者と共にマリノス君は多くの人に伝えてきた。 

そして、鹿島アントラーズも、共に歩んできた仲間だ。ここまで29年間の対戦成績は29勝38敗10分。随分とたくさん負け続けてきたものだ。オリジナル10の対戦カードの一つだった鹿島アントラーズ戦は、いつしか「伝統の一戦」と呼ばれるようになった。 

しかし、その伝統も覆されるときがくる。横浜F・マリノスは一足早くCFGの一員として大変身を遂げ優勝争いの常連となった。鹿島アントラーズも親会社が変わり、ついにジーコ路線の442のサッカーから距離を置くようになった。 

この試合では驚きのシーンが3つあった。鹿島アントラーズの選手が準備をしていない状況なのを見て、ボールパーソンが置いたボールをそのまま蹴り込んだコーナーキック。そして、鹿島アントラーズの選手が主審に抗議している間にリスタートして攻め込んだシーン。さらに、最も驚愕したのはデュエルと空中戦で、ことごとく横浜F・マリノスが勝利したことだ。今や、細部にまで勝者メンタリティが宿るのが横浜F・マリノスで、鹿島アントラーズは隙のある発展途上のチームだった。つまり、順位だけでなく直接対決の力関係でも逆転したのだ。ここまで鹿島アントラーズを圧倒したのは1995年の4戦4勝(1stステージ4-3,1-0,2ndステージ2-0,3-0)以来のことだろう。試合終了のホイッスルが鳴ると、トリコロールの選手たちは笑顔で堂々と最強をアピールし、鹿島アントラーズの選手は激闘に荒れたピッチに平伏した。 

鹿島アントラーズは鍛えられた好チーム。だから2点しか奪うことができなかった。ただ、大きな穴がチームには空いており、それが鹿島アントラーズの仇となった。鈴木優磨は、このチームの中心選手らしい。しかし、ハイボールで競らず、無駄なファールが多く、何より一人だけ守備の意識が緩慢だった。鹿島アントラーズはタイトな守備を仕掛けてきた。ところが、横浜F・マリノスはパスの出しどころに困ればエドゥアルドに預ければよかった。なぜなら、エドゥアルドに対面する鈴木優磨だけがボールを奪いにこないからだ。常に、エドゥアルドのところでは、ほんの少しだけ間合いが生まれた。体力を消耗しインテンシティが高い試合で生まれる、このほんの僅かな時間は横浜F・マリノスを大いに助けた。 

それでも、試合終盤に鈴木優磨は疲れてピッチでしゃがみ込んでしまった。鹿島アントラーズは前線にフレッシュな選手を投入したが、中盤以降の選手が疲弊してしまい、そのフレッシュな選手と一体になった攻撃をできなかった。逆に、横浜F・マリノスは余裕を持って試合をフィニッシュした。横浜F・マリノスの縦に素早いパスワークは鹿島アントラーズの体力を十分すぎるほど消耗させていた。そして、最終ラインとトップの間を喜田と岩田がつなぎ、中央からの脅威を感じる攻撃を未然に封じた。 

ケヴィン・マスカット監督は試合開始直後から声を出してアピールしクォン・スンテにプレッシャーをかけ続けていた。オビ・パウエル・オビンナは試合が止まるとすぐに水を用意してピッチに投げ込んだ。OBは選手を激励しリミックスポイントは「リミックスでんきDAY」を支援した。 戦いはピッチの中だけではなかった。

スタンドの手拍子と拍手は、今シーズン一番の大きな音となった。表彰、選手交代……拍手は大きく長く、スタンドのファン・サポーターの気持ちを十分にピッチに伝えた。数は力だ。コロナ禍にも関わらず大観衆が集まり、その最大の武器は大きな屋根に響いた。 

なんと素晴らしい夜だろう。勝つことだけではない。仲間がつながり一つの目標に向けて進み続けることに意味がある。試合終了後に、本来ならば背番号17を背負ってピッチに立つはずだった宮市亮が大型スクリーンに映し出されたとき、多くの人は一斉にこぼれる涙を堪えることができなかった。試合前、試合後にチームメイトは背番号17のユニフォームを着用した。キッチンカーの壁面に17を表示する販売事業者も現れた。 

本当に良いチームだ。良いチームを応援する人生になって良かった。1984年1月1日……高校生だったあの日、このチームを応援するために国立競技場に向かった選択は間違っていなかったと確信した。 

ちなみに、先に紹介した1995年といえば横浜F・マリノスがJリーグを初優勝した年だということを多くの人は記憶しているだろう。2022年は2つの鹿島アントラーズ戦を終え2位との勝ち点差が8。優勝への道は開けた。奢ることなくトリコロールの目指すゴールを見据えて一歩ずつ歩んでいけば良い。そして、歓喜の輪に宮市亮を迎え入れよう。