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Our home our field : NISSAN STADIUM
2002 FIFA World Cup™ “Stage of a Dream”
wonderfulness of a stadium with a seating capacity of 70,000.
1992年元日 マリーシアが誕生しました。
1980年代後半からサンバ隊によるブラジルスタイルの応援を行っていた読売クラブに対抗するために日産FC(現横浜F・マリノス)初の私設応援団としてマリーシアが天皇杯決勝読売戦を機に発足しました。Jリーグが開幕する1年と5ヶ月前、日本サッカーリーグ最後の年のことです。
それ以来、欧州スタイルの応援を日本に定着させることを目指して、時代に合わせた活動を行ってきました。日本サッカーリーグ時代から始めたゴール裏でのコアサポーターとしての活動は1995年まで。その間、サポーターという言葉も一部にしか知られていなかった日本に、新しい応援のスタイルを提言し実行してきました。
1995年の後半からはコアサポーターとしての役割を終え、応援スタイルへのこだわりを持たず、いつでも誰もが愛するクラブを応援できるサポーターの仲間づくりを行っています。メンバーは保育園児から60歳代まで。Jリーグクラブを応援する現存のサポータークラブとしては日本で最も長い歴史があります。
私たちは、なぜマリーシア(malicia)と名乗ったのか。
日本にマリーシアを初めて紹介したのはオスカー(FIFAワールドカップ1982スペイン大会ブラジル代表主将)。
1987年に日産FC(現横浜F・マリノス)に加入したオスカー(元ブラジル代表・主将)は雑誌のインタビューで日本のサッカーに不足しているものとしてものとしてマリーシアを提示しました。日産FCはオスカーによって導入されたマリーシアも使い、日本サッカーリーグを初優勝。さらには2年連続3冠制覇、アジア連覇と黄金時代を迎えます。
日本サッカーにはマリーシアが足りない。
オスカーが、そう発言した当時の日本サッカーは1-0でリードをしていても試合終了まで真正直に攻め込むことが当たり前でした。状況に合わせて時間を使いながら試合を組み立てるという発想がなかったのです。相手の力や前掛かり具合を利用して逆を突いてボールを動かすことも出来なかった。例えばイエローカードを1枚もらっている選手にあえてドリブルで突っかけることでファールを誘い2枚目のカードを出させようとすることも、後ろでボールを回して相手が前に獲りに来たタイミングで縦パスを入れるようなことも稀でした。いわゆる「自分たちのサッカー」だけをやろうとしていたのが日本サッカーだったのです。
つまり、試合展開に合わせた賢いプレーがマリーシアです。
日本サッカーに足りないものを補いたい・・・という想いで、私たちはマリーシアを名乗ることになりました。

ニコスカードCM(1993年)より

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