天皇杯の栄光

2011年12月17日

かつて、1984年元旦に初優勝し、1993年に最後の優勝をするまで、トリコロールの天皇杯は10年間無敗だった。敗退は全てPK戦のみ。まさにカップ戦の日産だった。そんなトリコロールが勝てなくなって、もう20年近くが経っている。

今度こそ、勝ってもいいのではないか。そう、思い続けて、年を重ねた。1984年に勝って以来、一度も元旦の予定を入れた事がない。他のクラブが優勝するのを見たくないがために、仕事で観戦した全日本女子選手権決勝戦を終えて、天皇杯が始まる前に帰宅した事も2度。

待っている、今年も元旦に栄光を掴む事を待っている。

89年 水沼劇的なゴール

90年 天皇杯史上最高の逆転優勝

松田直樹の永久欠番に想う

2011年8月12日

松田直樹の背番号3が永久欠番になる。

横浜F・マリノスでは、松田直樹選手の逝去に伴い、同選手の横浜F・マリノス、日本代表、そして日本サッカー界への多大なる貢献への敬意と謝意、さらには松田直樹という偉大な選手への心からの追悼の証として、横浜F・マリノス在籍時に使用していた背番号「3」を永久欠番とすることを決定致しました。ここに謹んでご報告させて頂きます。

オフィシャルサイトで発表された。今回の決定に対して賛否両論が沸き起こっている。その理由も様々。いずれが正しいということはなく、サポーターであれば感情的に語るのも当然のことといえる。

しかし、クラブは冷静に物事を判断すべきではないのか。50年後、「松田直樹の背番号3は永久欠番で、木村和司、井原正巳は永久欠番ではない」理由を、今の3世代後のクラブ職員は説明できるのだろうか。仮に、あなたがクラブ職員になったとき、その理由を明確に説明できるだろうか。そして、冷静に功績をたたえる手段を検討したときに、永久欠番以外に故人の功績を後世に伝える方法はなかったのだろうか。

以前、クラブの中では、マリノスタウンのクラブハウスの屋上にメモリアルスペースを設けようと私案をまとめていた人がいる。Jリーグ全クラブの中でも群を抜いて素晴らしい練習施設を保有しているクラブならではの方法の検討の余地はいくらでもあったに違いない。たとえば、日本サッカー協会には「日本サッカー殿堂」というスペースがある。そこにで、大正~昭和初期に日本サッカー界に画期的な技術的進歩をもたらしたビルマ(現ミャンマー)出身の留学生Kyaw Din(チョー・ディン)氏も、その名を刻んでいる。私たちが生まれる前にサッカー界に功績を残した人物の偉業をも伝えることが出来ている。けっして永久欠番だけが故人の功績を後世に伝える方法ではない。

今回、永久欠番ありきで検討が進み「今期は欠番」だったはずの背番号3を今期のうちに、いや、訃報から1ヶ月も経たないうちに永久欠番としたことは、クラブの冷静さを欠いた感情的な決定だったのではないかと思う。たいへん、残念だ。

松田直樹という忘れられない男。

2011年8月5日

松田直樹が死んだ。現役フットボーラーのままで、短い34歳の人生を終えた。この訃報を聞いたとき「やりきったのだな」と思った。彼は常に全力だった。だから、やり切るまでに死ぬ訳が無いと思った。

デビューしてトリコロールをリーグ初優勝させた。予選を闘わずu17、五輪、w杯に出場し世界で結果を残した。福岡で暴れた。スタンドを泣かせた。最期は出場停止だった。松田直樹は凄い奴だった。最期まで松田直樹らしく生きた。男の中の男。世界で最も自分を貫いたフットボーラーだった。

●気合いを入れるために試合前ににビンタをしてもらったら脳しんとうになった。
●「ここで退場にしたら試合がつまらなくなるよ」と試合中に主審に発言し、逆に「審判を侮辱した」と解釈され退場になった。
●0-5の大敗を喫したサンドニの悲劇の試合後、皆が途方に暮れる中、ジダンとのマッチアップを差し一言。『いやー、サッカーはケツだね!!!』
●ゆずのコンサートに行くはずの日に途中退場喰らいドタキャン。
●「殺るよ、殺っちゃうよ!」が集音マイクに拾われる。
●ナビスコ川崎戦で哲也退場後にGKを勤める。も、エリアばんばん飛び出してスイーパーチックにプレイ。最後は抜かれて失点を喫するも、視察に来ていたオシムに大ウケ。
●田中誠が不在の試合で控えの松田を使わずにディフェンスの枚数を変更した上に、理由を「田中誠がいなかったから」と発言したジーコにキレて代表合宿を無断脱走。
●トルシエをアイツ呼ばわり。
●W杯直前合宿で中田をプールに突き落とす。
などなどエピソードは数しれない、やんちゃなフットボーラー。
フットボールを盛り上げる三要素「誤審、退場、ラフプレー」の全てに関わり、自分で守って自分で攻める。しかし、その本質は決して引かない闘志あふれる男。いつしか私は、彼を「将軍」と呼んだ。

松田直樹は、ただ議論を巻き起こすフットボーラーではなかった。彼のプレーを巡って、何度、私はマリーシアの仲間達と口論になったことか。あのプレーを認めるか?認めないか?次節に使うべきなのか?もう、議論ではなく、一触即発の口論に至るほど、松田直樹は私をアツくさせた。

アツくさせるだけではない。松田直樹は仲間を病に陥れた。残留争いのまっただ中に、ある女性サポーターは声を失った。まったく声を発することが出来なくなったのだ。声を失い、何軒もの病院に行った。治らなかった。原因もわからなかった。しかし、最後の最後の治療院でのカウンセリングで、思い浮かべた原因の像は、敗れブーイングのまっただ中で両耳を両手で押さえ首を左右に振って夢遊病者のようにピッチを彷徨う松田直樹の姿だった。その姿を見たショックで、彼女は声帯を固め声を失ったのだ。
彼女は、全く声が出ない状況で、最終節の神戸ウイングスタジアムへ応援に向かった。そして、残留を決めた最終節の翌日の朝に、彼女には声が戻った。1人の女性サポーターを病に陥れるほど、松田直樹は危うさを持った狂気のフットボーラーだった。

松田直樹は死んだが、松田直樹の記憶は、この先、私達が死んでもずっと未来に伝え続けられるだろう。何度もスタンドから「馬鹿やろう」と叫んだ。死んだ時も「こんなときに死んで馬鹿やろう」と、一瞬は思った。でも、ここまでフットボールを大好きで、他の誰も真似できないほどの伝説を創ったフットボール馬鹿が、簡単に死ぬ訳が無い。でも死んだ。だから、私は、彼がやりたいことを「やりきったのだな」と思った。

松田直樹は休まない。この世では、やるべきことをやり切ったので、あの世で次の目標や次の標的を見つけ、すでに闘い始めているはずだ。今頃、誰かをぶっとばしているはずだ。でも、ちょっと上がり過ぎだよな。もっと堅実にやってもよかったはず。といっても、この結末が、彼には相応しかったのかもしれない。
「マツ!戻ってこい!」
何度叫んでも戻ってこなかったのが松田直樹だったのだから。

強化試合は欧州でやれ

2011年5月21日

お金が欲しかったアルゼンチン人に後押しされてコパアメリカに出れるかも!とぬか喜びしたものの、やはり出場は出来なかった。南米がコパアメリカに日本を呼びたい大きな理由の一つはお金なのだから、南米の人たちが、なんとしてでも出場して欲しいというコメントを出すのは解る。でも、彼らが欧州クラブと交渉してくれる訳ではなかった。

対する欧州クラブは日本人を戦力と見ていたから出場の許可を出さなかった。きっと5年前ならば、多くのクラブは日本人の出場を許可していたのではないか。その頃は、欧州でも日本人を呼びたい大きな理由はお金だったからだ。しかし、今では日本人がビッグクラブでも立派に戦力として活躍している。

コパアメリカへの出場が出来なくなり、強化試合の貴重な機会を嘆いている人いる。嘆く必要は無い。強化試合ならば欧州でやればいいじゃないか。国内組が欧州にまで駆けつければ良い。なにしろ、コパアメリカに出場するために欧州から代表選手を15名選出しようとしていたくらいなのだから。

南米、アフリカ各国の代表チームは欧州で強豪国との強化試合を、多々行なっている。日本も、やっとそれが出来るようになったのだ。

試合前にゲームを語る

2011年5月1日

やっと、待ちに待ったホームゲーム開幕を迎えた。4月29日14:00キックオフ。結果は引分けだったが、おおむね満足なゲーム内容。スタンドも33,000人以上で賑わい、今シーズンの期待が大いに膨らんだ。

「今年から、ホームゲームの前に、もっと試合について話をしようじゃないか。」
という発案が仲間の一人からあった。確かに、試合後にあーだこーだいうことは誰でも出来る。そして、それも楽しいし、次の試合の応援に繋がることにもなる。でも、試合開始直前に、目の前の試合について、もっと会話をすれば、更にゲームが楽しくなるのではないか。更に、どこでどのような応援をすればよいのかが明確になるのではないか。早速、ホーム開幕戦から実施した。

集まる場所はゴール裏6階にあるM・cafe。スペースは広々としているし、スタンディングでテーブルを囲めるし、適切な場所はココしかない。
私は、欧州での観戦は数えるほどしか無いが、試合前の様子はよく覚えている。どのスタジアムでも、どの大会でも、スタジアムの敷地内の色々な場所やスタジアムの近くのバールに人が集まっている。フットボールの語り部が、目の前の試合展開について熱く語って意見を交わしている。それが、スタジアムの熱い雰囲気を創り、試合展開に合わせた適所に巻き起こる大きな歓声に繋がっているように思える。

この日に集まったのは約15人。時間は20分間の短時間。飲むドリンクは1ドリンク。この時間を大切にしたい。今日の対戦相手は、どのような攻撃をしてくるのか。トリコロールの攻守のポイントはどこなのか。楽しみだ。また、次のホームゲームでやろう。でも、正直、福岡のことはわかりません。

フットボールが繋いだ宮城とイタリア

2011年4月28日

イタリア大使館へ行ってきた。建物、庭園を使って行なわれたパーティは東北地方の被災地を支援するチャリティパーティ。イタリア大使館には、かつては松平隠岐守の中屋敷。江戸時代の大名庭園が、そのまま残されている。東京が空襲に晒されている間もイタリア人によって庭は守られた。その広い庭園と屋敷の内外をつかってパーティは行なわれた。

イタリア大使のスピーチ。大使の横に招かれたのは宮城県庁の方だった。このパーティで集められたお金は宮城県に贈られる。千葉県から岩手県まで広い地域で被災しているわけだが、ここでは宮城県が支援の対象となっていた(スピーチでは宮城県以外の地域に対しても気遣う言葉が大使から発せられていた)。逆に、宮城県庁の方がスピーチで「福島県のことを忘れないでいてほしい」と原発災害で苦しむ福島県のことを気遣っておられたのがとても印象的だった。

さて、イタリアと宮城県を結ぶものは何だろう。先日、スポニチではイタリア代表と日本代表のチャリティマッチを仙台で開催したいというイタリアサッカー協会のコメントが報道されていた。そう、宮城県とイタリアを結んでいたのは2002年ワールドカップ。イタリア代表のキャンプ地が仙台だったことなのだ。

世界のフットボールファミリーが日本へ支援の手を差し伸べてくれていることは多く報じられている。でも、今日体験したことは、ちょっと違う。欧州の一つの国がフットボールを通じて繋がった一つの県を支援しようとしているのだ。また一つ、大きなフットボールの力を感じた。

さぁ未知のシーズンへ。

2011年4月17日

東日本大震災で中断していたリーグが再開される。被災地の復興は、まだ、ほんの小さな一歩を踏み出したばかりだが、ずっと日本中が休んでいるわけにはいかない。私たちは、少しでも早く「日常」を取り戻さなければならないのだ。社会は休んでいれば衰退する。

さて、今シーズンは未知のシーズンとなるだろう。これまでかつて、誰も経験したことがないことが起きる。

●長い中断でコンディション作りが不安。
●被災地支援で練習不足の選手が多数。
●東日本は本来ならナイトゲームの季節にデーゲームがある。
●余震などで、いつスケジュール変更があるか判らない。
●原発問題の影響で外国人選手の途中補強は期待薄。
などなど。

当然のことながら、東日本のクラブにはハンディキャップがある。おそらくガンバ大阪を本命に優勝争いは展開されるだろう。だからといってアビスパ福岡が大躍進することはないだろうが、攻撃陣に外国人の好選手を揃えたサンフレッチェ広島がトップ3に食い込むかもしれない。

とはいえ、ここは勝負事。そして競うはフットボール。誰にでも優勝の可能性はある。未知のシーズンだけに、愛するクラブには、前評判を覆す結果を期待したい。そして、こういう世の中になっているからこそ、リーグ戦は内容にも期待したい。経済的にも不透明な社会の中で、フットボールというエンターテイメントに人々はお金を支払うのだ。期待以上の非日常をフットボールスタジアムには与えてほしい。それができれば、きっと日本の将来に、クラブの将来に、きっと大きく役立つ、そんな今シーズンになるに違いない。

さぁ、リーグ再開は23日。相手は鹿島アントラーズ。日本中が注目する舞台は国立競技場だ。

東京電力女子サッカー部の、つかの間の幸せ

2011年4月10日

プレナスなでしこリーグは開幕を前にして参加チームが1チーム減少。奇数運営となった。TEPCOマリーゼ(東京電力女子サッカー部)が今期のリーグ参戦を中止したからだ。ニッカンスポーツによると「無期限休部へ」という報道になっている。

Jリーグのサポーターの一部には「震災でマリーゼというフットボールクラブが消える」とお考えの方もいらっしゃるようなので、少しここで私の意見を述べさせていただくことにする。

マリーゼの本拠地はJヴィレッジ。すばらしい施設だ。11面の天然芝。ホテル並の合宿施設。メインスタジアムは、当然、臨場感溢れるサッカー専用。マリーゼは、この施設で練習しホームゲームを行なってきた。ホームゲームには、地域の皆さんや東京電力関係者が1,000人から4,000人が訪れる。福島県内ではNHKが試合を生中継。民放も東京電力の提供で生中継。応援番組も東京電力の提供で毎週放送されているくらい、福島県内におけるマリーゼの存在感は絶大だ(ご存知の通り、この地域の電力は東北電力が担っている)。
ちなみに忘れている人も多いと思うが、Jヴィレッジは1995年に原発増設に対する見返りの地域振興策として130億円の建設費を東京電力が負担して建設し県に寄付した施設。県の外郭団体「県電源地域振興財団」が施設を保有し、 運営会社に貸し付けている。10周年の記念イベントに私は出席したが、福島県から知事をはじめそうそうたる面々が出席していた。建設計画が持ち上がった当時は、かなり大きく賛否が討議された施設なのだが、時の経過とともに、その記憶も風化してしまっている。

地域のチームである一方で,マリーゼは紛れもなく「企業の部活」だ。西が丘、柏の葉、三ツ沢、等々力のホームゲームにもマリーゼサポーターは多数来場する。もの凄い量の観光バスで来場する。なぜなら、各発電所や事業所ごとにバスを出して応援ツアーを組んでいるからだ。

過去に遡ってもプロ契約選手はいない。なぜなら、選手は社員だからだ。日本の女子サッカー選手において、マリーゼ入りは「最高級の幸福」だった。すばらしい環境でのプレー。同時に就職(ほとんどの他クラブの選手は仕事とサッカーの両立に苦労する)。そして、マリーゼ入りほど最高級の親孝行はないのだ。「サッカーばかりして」と言われ続けた女の子が日本を代表する大企業に社員として入社できる、それがマリーゼ入りなのだ。しかも、引退後も退職せずに仕事を続けることが出来る。

東京電力女子サッカー部マリーゼの存在は、日本サッカー界における、つかの間の幸せだった。

原子力発電所のトラブルが収まらず、マリーゼの選手達は東京電力の社員のままで自宅待機。それぞれが自主トレーニングをしている。なでしこリーグの開幕が迫り、東京電力からリーグ不参加が伝えられたわけだが、その間で、様々な検討がされていただろう。チームをまるまる引き受けようとする企業やクラブの申し出があったとしても、それは困難な方法だった。そして今後も困難だ。なぜなら、社員である選手達の雇用(しかも大企業である東京電力並の雇用)を保証することは難しいからだ。マリーゼの選手達は、日本国内でプレーする、どのプロ女子サッカー選手よりも好待遇なのだから。そして、マリーゼとしての継続も難しい。福島の地で、これまでと同様の幸せな関係を地域と築くのが絶望的なのは誰が見ても明白だからだ。

マリーゼには日本女子代表(なでしこジャパン)を含む有望な選手達が揃っている。日刊スポーツの記事によれば「希望する選手に関しては他クラブへの移籍も認めている。」とされている。ここは、いち早く、選手達に自由な選択を与えてあげられるよう、東京電力とリーグ事務局にお願いをしたい。

(1)トップレベルの女子サッカー選手としてプレーを続けるために、東京電力を退社して他のクラブに移籍する。

(2)トップレベルの女子サッカー選手としてのプレーを断念し、東京電力の社員として社業に専念する。

二つに一つだと思う。「また、一年後の来シーズンにマリーゼで今まで通りのプレーを」という根拠のない夢を抱くことはなく、今すぐに決断できる環境を用意してあげてほしいと思う。存続やチーム引き受けのために、ご苦労された方々も多いと思う。今日現在で、チームの解散・廃部は発表されていない。しかし、これから、東京電力は、更に重い社会的責任の負い方を問われるに違いない。だから、これまでマリーゼが東京電力女子サッカー部として、会社と地域とを繋いできた関係が、元に戻るとは考えにくい。たとえ、東京電力女子サッカー部が継続したとしても、そこに在籍する選手達には幸せなプレー環境とは思えないのだ。

私は、明後日、かつてマリーゼのホームゲームで7,636人の観客を集めた福島市のあずま陸上競技場へ向かう。そこには、まだ1,100人の被災者が生活している。

救援拠点施設 宮城県総合運動公園(グランディ・21)

2011年4月2日

宮城スタジアムの稼働率は、史上最高になるんじゃないか?というのはスポーツでの使用の話ではない。宮城スタジアムがある宮城県総合運動公園(グランディ・21)は、今、救援拠点施設となっている。ボランティアによれば、総合体育館は遺体安置所に、駐車場には外国人支援チームのテントが。ヘリポートとしても活用され日本全国からの消防チームが集結している。宮城スタジアムも音響施設などに損害が出ているようだ。

スタジアムは、その大きな建物や広い駐車場、交通インフラなどを災害復興に役立てることが多い。記憶に新しいところでは新潟県中越地震。新潟スタジアム・ビッグスワンは各地から集結した自衛隊の災害派遣部隊車両を受け入れく救済拠点となり、大規模な炊事支援が行なわれた。そして、「新潟県中越地震復興支援チャリティーマッチ ジーコジャパンドリームチームvsアルビレックス新潟」「TSUTAYAカップ アルビレックス新潟レディース vs なでしこジャパン」が行なわれた。特にアルビレックス新潟レディースは、当時はLリーグ2部。女子の2部にもかかわらず20,000人を超える観客を集めたビッグゲームとなった。

また防災拠点とすることを目的に作られたスタジアムもある。兵庫県にある三木総合防災公園陸上競技場(三木総合防災公園)だ。兵庫県各地に送る援助物資も貯蔵されている、まさに防災公園。なでしこリーグで度々使用されるスタジアムだがJリーグサポーターには馴染みがないだろう。しかし、このスタジアム、収容観客約20,000人。メインスタンドは屋根で覆われるとても立派なものだ。ジェフ千葉のホームスタジアム・フクダ電子アリーナも広域防災拠点となり、現地対策本部、物資の備蓄機能等の役割を担う機能を擁していることで有名だ。

宮城スタジアムが、震災復興に大活躍をしていることは、これから徐々に多くの人に知られていくと思う。これまで「遠すぎる」「トルコ戦で負けた」などを理由にサポーターからは行きたくないスタジアムとして有名だった宮城スタジアムの位置づけが、少し変わっていくのではないだろうか。そして、変わっていくことを、私は望んでいる。

味の素スタジアムが被災地の受け入れを決定したとき、植田朝日君が、このようなことをツイートした。
「俺たちのスタジアムが避難場所に選ばれた事を誇ろう!!」

フットボールの夢を緑色に塗る

2011年3月27日

震災以降、エンターテイメントやスポーツの役割がたびたび議論されている。そんな中、久しぶりに足を踏み込んだKAMOで数年ぶりにユニフォームの衝動買いをしてしまった。そのユニフォームは緑色。私がヴェルディのチームカラーである緑色のシャツを買うことは希だ。それほど、このニューヨーク・コスモスというチームの名前の意味は大きい。

ニューヨーク・コスモスは70年代から80年代にかけて北米サッカーリーグ(NASL)で最も人気があったチーム。1984年に解散するまでに多くの名選手が活躍した。まさに「伝説」生み出したチームだ。代表的な選手は日産自動車が獲得寸前と報じられた元パラグアイ代表のフリオ・セサール・ロメロ、名古屋グランパスで活躍したトーレスの父としても知られるカルロス・アウベルト、3度のワールドカップに出場し日産自動車の黄金期を支えた元ブラジル代表主将のジョゼ・オスカー・ベルナルディ、オランダ代表のトータルフットボールを支えたヨハン・ニースケンス、そして、皇帝フランツ・ベッケンバウアーと王様ペレだ。

ペレは1977(昭和52)年9月10日、日本で引退親善試合を行なった。カードはニューヨーク・コスモス対古河電工戦だった。子供心に、なぜペレの引退試合が東京・国立競技場で行われるのか不思議だったが、生中継にかじりついて見た記憶がある。最盛期には年間平均観客数が4万人を超える人気を誇ったニューヨーク・コスモスだが、スーパースターの引退後はじり貧となり1984年には消滅してしまう。しかし2010年8月にキング・ペレが名誉会長を務めて復活することが発表された。そして、あのエリック・ザ・キング・カントナがサッカー・ディレクターに就任したのだ。2人の王様がニューヨーク・コスモスを復興させる。

今回、衝動買いしたのはペレ引退の1977年モデル。小さめのサイズに大きな襟付き。

左胸にはニューヨーク・コスモスのエンブレムが輝く。

そして背中には栄光の背番号10が大きく記されている。

ニューヨーク・コスモスは「伝説」であり「夢」だ。カントナは言っている。
「すばらしいプロジェクトだ。これはフットボールとアートの融合だ。」
このチームは存在自体がアートなのだ。

選手はいない、スタジアムもない。ニューヨークにはレッド・ブルズがある。今回のユニフォームはアンブロ(というのが、またフットボール的には良い)だが、MLSのユニフォームサプライヤーはアディダス。様々な問題を抱えていて、ニューヨーク・コスモスがMLSのチームとして表舞台に立つかどうかは未知数だ。だが、ペレ×カントナ×ニューヨーク・コスモスという組み合わせは、あまりに魅力的で、大きな夢を抱かずにはいられない。

チャリティや慈善事業も良い。でも、やはりプロスポーツに最も大切なのは、ファンが共感する大きく描いた夢だと思う。